katatumuriのブログ

!カタツムリ そろそろ登れ 富士の山

あまりにも遅すぎた?哲学っぽく思考する時期

 

この世に何故生まれてきた(くる)の?とか、生まれてきた(くる)意味とか

自分が生きている意味とか 自分が生きている価値とか

よく十代の思春期に哲学的なことを思考すると言うけれど、

 

自分にも悩みもあったし挫折なんて日常的なことだったし、馬鹿にされたり屈辱的なこともあったし家庭環境もそんな良くもなかったし、友達も少なかったし(なんでも本音で話せるということを友達とするならばいなかった)自分にこれといって優れたところも得意とすることもまったくなかったし、容姿もよくないし、貧乏だし、頭も良くないし、運動神経も悪い。家庭環境でいえば、父方母方のそれぞれのおじいちゃん、おばあちゃんには会ったこともないし親族の縁も薄いほうだ。

両親から自分の誕生日会なんてされたこともないし(それが普通だと思っていた)、友達の家では誕生日の日にはにケーキを食べてみんなでお祝いするんやて!・・・みたいな事を母に話して初めて自分の誕生日にケーキが出てきたぐらいだし。父は酔っ払って暴力を振るうこともあったし、貧乏で外食や家族旅行とか行ったことも無いし、あ、一度だけ小学校のときプールに行ったのは覚えてる。こんな家庭がそんなに嫌だとか不満だとあまりおもわなかった。

女性としての魅力もないし幸せでもない。それなりに不の要素が多い自分自身、環境だったりしたけれど、何で生まれてきたんだろう とか うまれてきた意味とか いきていく意味とか 価値とか 幸せになりたいとか あまり考えたことがなかった。それはある意味あやふやでぬかるんだ不幸?幸せ?だったからだと思う。

 

今でも、幸せになりたいとかあまり思わない考えないけったいな自分ですが。

 

そんな自分が27歳で車椅子になって初めて対面したわけです。哲学的な思考。 不自由な体になって・・・。 なんで生まれてきたんだろう?なんか意味があるのか?自分には生きていく意味・価値があるのか? なんで自分(私)は自分(私)なんだ?いつから自分なんだ?とかそもそも自分とはなんだ?とか そこから派生して前世とか来世とか運命とか宿業とか宗教とか信仰とか・・・いろいろ。ない頭を酷使して疲れ果てて・・・。(笑)

車の免許も取る事もなく、私は自ら死を選択する自由は無くした(放棄)。なので生きるしかない。目的も理想も夢も 居場所もいらない、死ぬまで「自分とはなにか?」を探し求めて(なんてのんきな)「自分自身になる」ことを努力する。

 

なんであんた生きてんの?って訊かれたら ただ 「自分自身になる」 こと と答え 

なんで死なないの?と訊かれたら 申し訳ないけれど生きるしかない と答えます。今のところ。今後 わかりません。 もしかして、地球がひっくり返って、

胸が きゅん とするような恋をしているから!なんて答えるかもしれない。(爆笑)

 

・・・・・それぐらい、人間は 人生は 人の心は 不可思議なものだ。